石見銀山大森町では、野草はあちこちに咲きます。そんな道端に咲いている花を摘んで飾るのも、里山暮らしの楽しさかもしれません。ですから、群言堂には野の花の名前をつけられた服が多くあります。野の花は決して派手やかではないけれど、あるがままの姿でそれぞれの花を咲かせています。群言堂は、そんな野の花のように、ありのままで個性を持ったデザインを心がけています。
摘んできた野の花は、その季節のひとときだけなので、自然からその美しさを分けてもらっている気持ちでいます。活けるとき剣山やオアシスは使わず、できるだけ自然のままに、ざるやかごに挿したりもします。野の花にはきらびやかな花器よりも、意外なところにあるさりげない道具と合うと思います。
花を活ける、といってもあまり構えず、自然のなかの様子で感じたように、自分なりの工夫で愛嬌を加えてあげるのが、群言堂らしいところかもしれません。
「家の作りやうは 夏をむねとすべし」というのは「徒然草」の一節ですが、蒸し暑い夏を快適に過ごすのは、昔から日本のテーマだったようです。風の通り道を上手に工夫することで、暑さを乗り切って来たのでしょう。私たちは入り口や窓などは開け放して、さまざまな暖簾(のれん)を掛けて、室内からの風景を楽しんでいます。そして軒下には風鈴を下げ、玄関には金魚鉢を置いて、という具合に、目でも、耳でも、涼しさを演出しています。
あまりに暑い地域ではエアコンを入れて締め切って眠るのも仕方がないのかもしれませんが、電気が無かった頃の先人たちの知恵もなかなかです。庭があれば、水を打つのも涼しい風を呼んでくれて、心地よさも格別です。
さすがに冬は無理ですが、春や秋なら風を感じながら過ごすのも、おすすめです。都会では玄関も窓も開け放つわけにはいかないでしょうが、あまり人目につかない所があれば、工夫するのも楽しいと思います。扉や窓を開け放すと、心の風通しも良くなる気がしています。
ある時、ウメモドキの木を切って、壁際に活けて飾りました。緑の葉に真っ赤な実が映えてとてもきれいでしたが、しばらくして葉が枯れてしまい、若いスタッフが捨ててしまいました。彼女は、枯れたから終わりと思ったのでしょう。それを拾ってきて、葉っぱを全部落として赤い実だけにし、器を変えて活け直してみたら、葉がある時よりもむしろ美しく見えました。それを見た彼女は、ぽろぽろ涙をこぼしました。それはきっと反省などではなく、「枯れてもまだ生かすことができる」という気づきの涙だった気がします。枯れたら終わりという常識を取り払ってみると、新しい美しさが見えてきたりして、枯れたあとまで生かしきれたら、植物も喜んでくれるかもしれません。
花のない季節にも、枯れたものを活けてみてはいかがでしょう。枯れた植物にはみずみずしかった時期とは違う味わいがありますし、そんな植物の姿から学ぶことも、私たちにはありそうです。
山陰の冬は、しんしんと冷え込みます。部屋の中でも吐く息が白く見えます。それでも、部屋全体を汗ばむほど暖めるのは、少し過剰な気もします。そこで登場するのが、火鉢やあんかなど、昔ながらの道具です。
玄関の土間には大きな火鉢を置いて茶釜を掛けています。おかげで一日中しゅんしゅんと茶釜から湯気が上がり、出先から戻ってきた人を温めてくれます。火鉢はお湯を沸かすだけでなく、コトコト煮込む料理も得意です。夜はふとんにあんかを入れて、ぽかぽか寝ています。
そして欠かせないのが、毛糸のルームソックスです。特にお気に入りは、手編みのもの。手づくりのものには必ず背景にストーリーがあって、つくった人の思いも知ると、いっそう温かな気持ちになります。