前回のコラムで、近所の畑を借りて野菜づくりを始めたことはお伝えした。僕たち家族がそれなりに真面目に土を耕し、それなりに野菜を収穫できているのを近所のおじちゃんは見ている。この春に畑を始めて、そんなに時間が経たないうちに
「もうひとつ畑があるが、やらないか?」
と声がかかった。最初に取り掛かった畑よりも、すこしだけ民家から離れている山側の畑。もちろんタダで借りられるということだった。
最初の畑は、植えたいものをどんどん植えていたら、すぐに手狭になってしまっていた。おじちゃんから声がかかった時、折しも我が家の食卓で「腸活×発酵」ブームが来ていたので「もうひとつの畑には大豆をたくさん育てて、自家製発酵食品づくりにチャレンジしよう」という結論に至った。
早速、おじちゃんに連れられて見学に行ってみると、南阿蘇村のカルデラの谷を一望できる最高の眺めの畑だった。家からも歩いて10分ちょっとでたどり着ける。
こんなに素敵な畑がなんで耕作放棄状態なのか。都会から来た人間にとっては不思議でしょうがない。
6月下旬に大豆の種まきを始めた。これだけの長さの畝を立て、マルチを張るのは初めての体験。ちょっとした農家気分になりながら、週末の朝に早起きしては準備を進めた。
今年の初夏の日差しは強烈で、一度熱中症になってしまった。しかし、来たる大豆の大量収穫と、そこから生まれる自家製味噌&醤油を夢みて「黒千石」と地大豆である「みさを大豆」を一生懸命まいた。
一点、気がかりだったのは、耕作を始める前にこの畑に獣の足跡が残っていたことだった。地元のおじちゃんにも「このあたりは民家がないから、山から下りてきたシカやイノシシが出るからなぁ。食べられないことを祈るしかない」と言われていた。
そんな、おじちゃんは僕にやんわり警鐘を鳴らすだけではなく、なんと畑を囲う柵までつくってくれて、僕の大豆畑の成功を応援してくれた。
種まきから1ヶ月くらいで6〜7割くらいの豆が発芽し、すくすくと成長しはじめた。これからこの子たちが大きくなって、たくさんの大豆をもたらしてくれることを思うと、期待は膨らむばかり。そこからは「ほったらかし農法」で、気が向いた時に畑に行く程度の管理で大豆を見守った。
しかし、9月上旬に「ヤツら」は現れた。どんどんと枝葉を広げ、莢(さや)をつけ始めた大豆たちの先端が、虚空を仰ぐかのように失くなっていった。柵もご丁寧に踏み倒されていた。おじちゃんにも「これはシカに食われとる」と診断された。
そこからは成す術がなかった。いまさら高価な電柵をつけるわけにもいかないし、一度目をつけられた畑から獣たちを追い払う効果的な方法は、どれだけGoogleで検索しても出てこなかった。
本当はたくさんの大豆を収穫できたはずの畑。11月上旬に「ゼロ収穫」で撤収作業をしていた時の無念な気持ちを一生忘れないだろう。
「自然と共に生きたい」
そんな願いをもって、僕たち家族は大都会から移住してきた。しかし、こうして目の前で育てた大豆が「シカの餌」になった現実を前にすると、単なる戯言(たわごと)だったのではないかと思う。
「田舎」に生きているのは人間だけではない。シカやイノシシも必死に生きている。もとはと言えば彼らの生息地だったはずだ。
そんな場所で田畑を耕し続けてきた土地の先代たちは、獣たちと文字通り「生きるか死ぬか」の戦いを続けてきたのだろう。必死の思いで育てた米、大豆、野菜たちが獣に食われてしまったら、年貢も納められないし、自分たちの飯も賄えない。死活問題。
現代に生きる僕は、趣味の大豆畑をシカに食べられようが近所のスーパーに行けばいつでも豆腐も味噌も買える。なんと生ぬるいことか。
今回の獣害体験を通じて、都会暮らしの頃に抱いていた「自然と共に生きる」という考えは大幅に更新された。
人間が自然と共に生きるということは、お互いに必死に生きた結果に、ようやく成り立つことなのではないか。「手を取り合って、仲良しこよし」なんてことはありえない。
あっちは子孫繁栄のためにこれからも僕が育てた作物を狙ってくるだろう。こっちも食べられないように必死に対策をして、猟師免許を取るかもしれない。
お互いに必死に生き、バランスが取れた状態が「共に生きる」ということなのではないか。
今後、僕が近所でシカを見かけても「動物かわいい」と思うことは二度とないだろう。こっちも必死で生きてやる。
植原 正太郎
うえはら・しょうたろう
1988年4月仙台生まれ。いかしあう社会のつくり方を発信するWEBマガジン「greenz.jp」を運営するNPOグリーンズで共同代表として健やかな経営と事業づくりに励んでます。2021年5月に家族で熊本県南阿蘇村に移住。暇さえあれば釣りがしたい二児の父。