田舎に暮らす友人をわざわざ訪ねると、大抵の場合、とんでもない歓待を受ける。とびきりの地の物を味わわせてもらったり、その土地でしか見ることのできない風景に連れて行ってもらったり。到底お返しできないような体験をさせてもらって、お腹も心も満たされて帰っていく。
東京に住んでいた頃はそんな体験をすると「どうしてこんなにもてなしてくれるのだろうか」と怪訝な気持ちも生まれた。今度会った時には壺でも売られるのではないかと。
しかし、自分がいざ田舎に暮らしてみると、その気持ちが分かるようになってきた。友人が遊びに来てくれると、めちゃくちゃ嬉しいのだ。
南阿蘇村で暮らし始めて1年。うちにも友人たちが旅行も兼ねて遊びに来てくれるようになっている。
友人の来村予定が決まったら2週間前くらいから夫婦のあいだで議論がはじまる。「どんなおもてなしをしようか」「どんなところにお連れしようか」などと話し合うのだが、夫婦それぞれに好きなポイントや主張があるので、軽いバトルになることもある。
先日も親しい友人が4人で遊びに来てくれたのだが、不安定な天気予報を見ながら、当日まで最適な行程について夫婦で話し合った。
どうしてここまで「おもてなし」に気合いが入ってしまうのか。
まず、友人に会えることが以前にも増して嬉しいことだからだ。東京に住んでる頃は連絡すればすぐにでも会える距離にいたけれど、いまは飛行機でわざわざ来てもらわないといけない。次にいつ会えるかもわからないので、できるかぎり良い時間を過ごしたいと思う。
また、友人を迎えて過ごす週末は、僕たち家族も楽しい時間となる。一緒に温泉に浸かり、風景を眺め、夜の楽しいひとときを過ごす。子どもたちも、僕らの友人にたくさん遊んでもらって、お別れの時には寂しくなってしまうほどだ。
そして、これが一番の理由だと思うのだが、友人たちにも「この土地を好きになって帰ってもらいたい」という想いがあるからだ。帰り際に「あぁ、いい土地だった」と思ってもらえたら、僕らとしては心から嬉しい。
少し押し付けがましいかもしれないのだが、僕らが好きになったものを知ってもらったり、感じてもらったりということそのものが、喜びなのだ。だから、おもてなしの気持ちが自然と湧いてくる。
2500年前にも「朋有り、遠方より来たる。また楽しからずや。」と孔子は言葉を残している。おもてなしによって自分自身が満たされるのは孔子も同じだったのではないだろうか。
だから、おもてなしを受ける人は「壺を売られる」などの心配をしなくてもいい。用意される食べ物や体験を、心から味わってほしい。それだけだ。
植原 正太郎
うえはら・しょうたろう
1988年4月仙台生まれ。いかしあう社会のつくり方を発信するWEBマガジン「greenz.jp」を運営するNPOグリーンズで共同代表として健やかな経営と事業づくりに励んでます。2021年5月に家族で熊本県南阿蘇村に移住。暇さえあれば釣りがしたい二児の父。