第八話 タキビバ誕生譚(3)シェルター共闘編|木方彩乃さんの根のある暮らし

島根から帰ると(第7話参照)、季節は夏から秋に変わっていた。かまど計画はふりだしに戻ったが、事態はそれどころではなくなっていた。タキビバのセンターハウス計画が、暗礁に乗り上げてしまったのだ。

タキビバの敷地内には、築30年を超えるコンクリートの建屋が鎮座していた。それをリノベーションして、多目的ホールや会議室や客室などを整備する予定だった。そのプランが頓挫する。

お化け屋敷呼ばわりされていた、旧しろがね邸

混乱のなかで、更地にして建て直そうという声が大きくなった。大金をかけて幽霊がでそうな廃墟をどうにかこうにかするより、自分たちの得意とする木造で、身の丈にあった空間を自由に創りたい─そう主張する新築派が、多勢を占めた。

ただひとり、社長だけが自説を曲げなかった。
「自然と対峙するために、堅牢な人間の砦が必要なんです」

私は、浅間周辺では見慣れた火山シェルターを思い出した。本来は地中に埋めて水路にするためのコンクリート構造物であるが、噴火の際、ばらばらと飛んでくる噴石から身を守れるよう所々に設置されていたのだ。

暗渠(カルバート)を転用した、火山シェルター

もう一つの誤算は、80名分の個室を備えた前代未聞の宿泊棟計画だった。「てんでん塒(ねぐら)」と名付けた八角形の建屋は、建築確認申請も済み着工を待つばかりになっていたが、土壇場でストップした。施工を止めたいと言い出したのは、それまで旗ふり役をしていた私自身だった。

幻となった「てんでん塒」の模型と建設予定地

ゼロから物事を興すのも、もちろん労力がかかるか、動き出した物事を止めるのは、更なる労力を要した。私はひどく追いつめられ、孤独だった。こんなにもタキビバのことを考えているのは、私だけではないのか?そんな想いに囚われていた。

問題が山積するなか、彗星のように現れたのが、岡山県西粟倉村にあるようびの代表、大島正幸さんだった。

木工家具の会社だと聞いていたので、はじめはピンと来なかった。岡山では遠すぎるし、机や椅子などインテリアの提案をされても、考えられる状況になかった。

私は内情を、正直に打ち明けることにした。まだ数えるほどしか会っていないのに、事情を理解した彼はこう言った。「お父さんと、お母さんですね」つまり…タキビバという子供がいて、両親の子供に対する想いは変わらないが、方針が違う。片方は旅をさせろといい、片方は危ないという。だがその愛情の深さに、違いはないんですよ─大島さんの話に、目から鱗が落ちる音が聞こえた。

シェルターのリノベーションを、ようびさんに任せることが決まり、西粟倉村から建築士の与語さんがやってきた。彼は半年ものあいだ北軽井沢に滞在し、設計から施工管理まで全てみてくれた。

冬眠していた私は、シェルター内のサインを担当することになった。みんなで壁を剥がしたり、床を磨いたり。打ち捨てられていた空間に、光がさし風がぬけていく。淀んだ空気が、季節とともに流れていくようだった。

工事中のシェルター内部と、サインイメージ

春が来ると、かまど造りもはじまった。フリーハンドさんに図面をひいてもらい、増田煉瓦さんに耐火煉瓦やアドバイスをもらって、ひたすら積んだり崩したり。かまど本体は、真っ白な漆喰で仕上げたくもあったが、汚れやすいので黒くすることにした。墨汁を勧められ、半信半疑で塗ってみる。味のある下地と相まって、年期を感じさせる出来栄えになった。

タキビバのWEBサイトもつくる。焚火という言語化しづらい現象・体験・空間をどう伝えたら良いのか?特にビジネスシーンでの活用を促したいので、ロジカルとエモーショナルの兼ね合いを意識した。施設の動画や画像も掲載しているので、ぜひご覧いただきたい。

7 月には、職人さんたちを招いて「火入れ式」を行った。かまどカレーや、きたかる野菜をたっぷり使ったご馳走をふるまう。

火入れ式
左から4人目がようびの大島さん、右端が与語さん

2020年9月、タキビバがオープンし、はじめてお客さまを迎える。

雨上がりの空に大きな大きな虹がかかり、私たちは歓声をあげた。

タキビバの空にかかる虹


筆者プロフィール

木方 彩乃

きほう・あやの

1978年 埼玉生まれ。多摩美術大学・環境デザイン科卒。在学中から食物を食べる空間「食宇空間(くうくうかん)」の制作をはじめる。2015年より群馬県北軽井沢にある「有限会社きたもっく」に勤務。山間の小さな会社だが、日本一と称されるキャンプ場スウィートグラスを営んでいる。山を起点とした循環型事業を展開。

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