「牡蠣棚さ行って潜ってみろ。こんなでっけな魚がウヨウヨいるんだど。海の中は、ドリームだあ!!」
今年74歳になる師匠は夏休みの小学生のようなキラキラした目でその魅力を熱く語る。夏になると水深12m程ある牡蠣の養殖イカダで素潜り漁をしてスズキやクロダイ、ヒラマサなどを獲っている。
70歳を超えても現役で潜り、海の底で魚が来るのをじっと待ち、寄ってきた獲物のコメカミを撃ち抜く。いまだ表層でプカプカやっている3年目の私からすると、もう超人としか言いようがない。
師匠は海外のエビのトロール船や商船の機関長をやっていた。ときどき晩酌に招待してもらうとそのときの話を聞かせてくれる。
インドネシアでは獲っても獲ってもエビがたくさんいたこと。トルコの人たちが日本人に親切にしてくれること。マダガスカルでは皆、お金がなくても幸せそうなこと。空までそびえ立つバオバブの群生林、満点の星空が美しかったこと。どこも私は行ったことがないところばかりだが、想像するだけでワクワクする。
酒の肴に外国の面白い話を聞いたあとに「でもやっぱり折浜が一番だ〜、こんないいどごねえど」としみじみ語っていたのがずっと印象に残っている。
船乗りとして定年まで勤めたあとは、浜で小漁師をやっている。春はシャコ刺網、定置網(12月まで)、夏はウニ、素潜り、晩秋から冬にかけてアワビ、ナマコと正に憧れのスタイルだ。
じいちゃん亡き後、小漁師を始めた私は子どもの頃の記憶を頼りに漁をやっているが、肝心の細かいところはわからないため師匠に色々と教えてもらったり、道具をもらったりしている。
一緒に漁を手伝っているおじいさんたちが3人いるが皆さんも元船乗りで、それぞれ、遠洋のカツオ一本釣り船やマグロ巻き網船などに乗っていた。作業をしながらまた違った経験談をしてくれるのがとても面白い。
師匠はもう1人いる。父方のおんちゃん(伯父)で今年83歳になる。子どもの頃、お盆や正月で親戚一同が集まるといつもおんちゃんは朝から5リットルの大五郎を小脇に抱えて呑んでいる。
そのときは自分の話を聞かれるばかりで船乗りのおんちゃんということしか知らなかった。仕事が好きで会社からも頼りにされており、80歳を過ぎてもときどきヘルプを頼まれている。
「船を降りて暇になったから、手伝うど〜」と言ってくれ、原付にまたがって刺網の手伝いに来てくれるようになった。
シャコを外しながら当時の話を聞くとこれがまた面白すぎる。
中学を卒業後、近海トロールや北洋のサケ・マスなど様々な船に乗ったあと、40代からはJICA海外協力隊の専門員として海外へ漁業の技術指導をしに行っていたそうだ。
チリの沿岸でヒラメ刺網の実験をしたけど、大漁だったのにほとんどオットセイに食べられたり、コロンビアではマフィアがウロウロしていたり、南アフリカで定置網を指導するときは道具が何もないので船外機を日本から空輸したり、波乱万丈の滞在記をたくさん聞かせてくれた。
基本的には全て一人で現地の状況を確認し、言葉がほとんど通じない現地の人とその場その場で言葉を覚えてやりとりしながら漁業を仕組み化しなければならないそうだ。
当時は携帯電話どころかインターネットもない時代。自分だったらできるかどうか…
「外地はおもせがったな〜」酔っ払っているところしか知らなかった私はおんちゃんへの見る目が尊敬と憧れに一気に変わった。
浜の人は生涯現役。また別の92歳のおじいさんは今日も車を運転し、朝シャコを獲り、はまぐり堂の向かいにある畑を耕している。
「健康のためにやってんだ。こんなに良いところねえべ〜」
とたまに立ち話で15歳から船乗りになった話をしてくれる。ときどき有名な成功者が本に残しているような格言を自分の経験からポロッという。
「俺たちは勉強でぎねがったからなあ」と笑いながら。
今では時代に取り残され、消えそうな浜だが、元々は世界とダイレクトに繋がっていて、グローバルな人がたくさんいたのだ。
皆、色々な国を見てきてもこの場所が良いという。その魅力をこれから自分たちが伝えられればきっとチャンスはあるはずだ。
駆け出しの小漁師は、名もなき伝説の男たちの背中を今日も追いかける。
亀山 貴一
かめやま・たかかず
石巻市蛤浜で生まれ育ち、宮城県水産高校の教師となる。震災によって2世帯5人まで減少した蛤浜を再生するため、2012年3月に蛤浜再生プロジェクトを立ち上げる。2013年3月に退職し、cafeはまぐり堂をオープンする。2014年4月に一般社団法人はまのねを立ち上げ、蛤浜の魅力や課題を活かした事業づくりに取り組んでいる。