第四話 山に囲まれて|亀山貴一さんの根のある暮らし

一度失った信用を取り戻すには時間がかかる。

手紙を書いて、もうとにかく謝って、あとは同じことを繰り返さないよう気をつけて進むしかない。

しばらくダメージは残っていたが、これまでやってきたことは決して無駄ではなかった。最初、鼻で笑われていたカフェが予想以上の集客をあげたことにより、行政も協力してくれるようになった。

昔のような美しい風景を取り戻すには、人口が少ないというだけでなく、課題が山積みである。県から復興支援の助成金をいただけるようになり、その課題に取り組んできた。

山の再生がその一つだ。

荒れてしまった山:枯れた竹や倒木が目立つ

子どもの頃は、山と海が遊び場だった。春はわらびやたらの芽などの山菜を、秋は栗やあけびをとりに行くのが楽しみだった。真竹で鉄砲を作ってリュウノヒゲの実を弾にして遊んだり、七夕の笹もクリスマスツリーのモミの木も、ひい爺さんが切ってきて飾っていた。

大人になって20年ぶりくらいに山に入ったら、薄暗く、倒木と枝だらけの状態にショックを受けた。

竹藪は稲穂のような花が咲いて、全部枯れて倒れていた。皆さんは竹の花を見たことがあるだろうか?近所のおばあさんに聞いたら震災の年に一斉に花が咲いて枯れたそうだ。調べてみたら竹の花が咲くのはなんと120年周期で、大昔から大地震や災害など不吉なことが起こる前兆と言われているそう。

いつも綺麗な水が流れ、サワガニやウキゴリをとった沢も、土砂が流れ込み、途切れ途切れになっていた。森がこのような状態では当然か。

戦後、国が音頭をとって「杉を植えてハワイへ行こう!」というキャンペーンが行われたらしく、ぐるりと山に囲まれた蛤浜は周りがほとんど杉林になった。

当時、木はお金になったようだったが、植えた木が売れるようになるには50年はかかる。その間に輸入材が安く入り、木の価値はなくなってしまった。最初は手入れされていた山もお金にならないとなると徐々に荒れ始めた。

今では倒木も多く、保水力がなくなった山は大雨が降ると土砂が流れたり、崩れたりする。

災害を防ぐだけでなく、海にとっても山を健全に保つことは重要だ。山からのミネラルが沢から海へ流れ込み、プランクトンの栄養になる。この辺りは牡蠣の養殖が盛んで、海を豊かにするためには山も豊かにする必要がある。

間伐した杉は葉をつけたまま自然乾燥

山の維持管理は皆、森林組合に頼んでいた。しかし、手間賃を引かれると木を売ったお金はいくらも残らない。面積が狭いと赤字になることも。だから皆放置して今のような状態になってしまったようだ。

なんとか山を良くしていきたいと思った我々は、自分たちで間伐し、製品にまですることにした。

間伐は最も水を吸っていない2月の新月のときにだけ行った。倒した杉は葉をつけた状態で倒したままにして、水分を蒸発させた。1年間乾燥させた後、2mに玉切りにしていよいよ運び出す。

学生さんや企業の方にも手伝ってもらい、都市部の人にも森づくりに関わってもらう機会にした。その後、トラックで近くの製材所へ持って行き製材してもらった。

曲がったり、節が多く使い物にならないものもあったが、節をくり抜いて塞いで使ったり、曲線を生かした物にするなど、なるべく工夫して使えるようにした。通常杉材は柔らかくて家具には向いていないそうだが、作ってみるとこれはこれで味がある。

間伐材でカフェのテーブルを

節をくり抜いて枝で埋めればこれも味に

他にも外壁や床材、カフェで出すコーヒーのコースターなどにも使ってみた。普通であれば、チップになって合板にしかならないような木でも工夫すればそれなりに良くなると思った。まだまだ規模的には微々たるものだが、経済も山の資源も循環させていきたい。

杉板をコーヒーのトレーに

土砂崩れがあったところには間伐材で土留めの柵を作り、ちょっとずつ果樹を植えている。じいちゃんたちは自分の代ではお金にならないが、きっと孫の代を思って木を植えてくれたのだろう。自分が何歳まで生きられるか分からないが、50年後、100年後に美味しい実がたくさんなって、気持ちの良い豊かな山になっていたら良いなあ。


筆者プロフィール

亀山 貴一

かめやま・たかかず

石巻市蛤浜で生まれ育ち、宮城県水産高校の教師となる。震災によって2世帯5人まで減少した蛤浜を再生するため、2012年3月に蛤浜再生プロジェクトを立ち上げる。2013年3月に退職し、cafeはまぐり堂をオープンする。2014年4月に一般社団法人はまのねを立ち上げ、蛤浜の魅力や課題を活かした事業づくりに取り組んでいる。

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