第二話 浜の暮らしをつなぎたい|亀山貴一さんの根のある暮らし

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それから一年。自分の生活の立て直しと学校の復旧も落ち着いてきた頃、テレビをつけると隣に住んでいた区長さんが映っていた。

壊れた防波堤でのインタビューでは「例え一人になっても漁業を再開し、浜で暮らしていく」その強い意志に浜の人のたくましさを感じた。

壊れた防波堤:かき処理場や漁具倉庫も全て流された

それは震災直後もそうだった。支援がまだ全然こないときでも年配者が中心となり、流れてきた瓦礫で沢に水洗トイレや風呂をつくったり、かまどでご飯を炊いて採集してきた魚介でご飯を作る。昔は当たり前だったのかもしれないが、私たち世代には全くできないことだった。

学校で「生きる力を育む」なんて偉そうに言っている自分が恥ずかしくなり、これこそが残してくべき生きる知恵と力なのではないかと思うようになった。

そのテレビを見たときから自分の中で何かのスイッチが入り、子どもの頃から好きで暮らしていた浜をなんとか残したいと行動するようになった。

1年経ってもまだまだ残っている瓦礫。3世帯まで減った家。ほとんどが60代以上。もう家は建てられない。こんな絶望的な状況でもできることはなんなのかを考えた。そして、たった1人で「暮らし・産業・学び」を軸とした「蛤浜再生プロジェクト」がスタートした。

まずは灯りが消えた浜に火を灯し、賑わいをつくりたいとカフェや宿、マリンアクティビティなど交流人口を増やすことを考えた。おじいさん、おばあさんにも伝わりやすいようイメージの絵を描いた。

描いたビジョン:交流で賑わいを

理想は描くもののノウハウや資金はなく、仲間もいない。なんとか実現できないかと、住民や地権者に想いを語った。皆さん、高齢のため直接協力はできないものの、蛤浜が良くなるならと応援してくれた。

幼なじみや行政、大学、支援に入ってくれたNPOなどとにかく手当たり次第相談に行った。絵を見て、アドバイスや「できたら良いね」と言ってくれたが、この状況では現実的ではなく話は全く進まなかった。

3ヶ月ほど経ったときのこと。友人の紹介でボランティア活動をしていたNext Ishinomakiという団体のメンバーを紹介してもらい、ここから大きくプロジェクトが動き出した。

まずは仲間と泥かき、瓦礫の撤去から

4人のメンバーは皆同世代。絵を見て「面白そうだね!」と資金はないものの、泥かきや瓦礫の撤去などできることから始めようと協力してくれた。

私は来てくれるメンバーに作業だけではなく、浜の良さを感じてほしいとバーベキューをしたり、海で泳いだりと楽しんでもらうことを考えた。そうすると人が人を呼び、多いときには約100人が集まり、一夏で瓦礫は片付いた。

いよいよあの絵を実現しようと、助成金や寄付金の申請をしたが一つも通らなかった。

それならばと新築は諦め、高台に残った築約100年の自宅を改装しカフェにすることにした。結果、これが良い状況をつくっていくことになる。

予算がない中で、家族の協力や個人で募金を持ってきてくれたり、つくる過程にも多くの人たちが協力してくれ、様々な人の想いがカフェに集まった。

築約100年の自宅をボランティアの皆さんの力を借りて改装

当初、学校をやめる気はなく、浜の人や誰かが運営をしてくれれば良いなと考えていた。しかし、これだけたくさんの想いや良き仲間に恵まれ、中途半端な気持ちではできないなと学校を辞める決断をした。

経営も分からず、カフェでアルバイトの経験もなし、ただ強い想いと使命感だけで突き進んだ。

そして2013年3月11日震災から丸2年のこの日、料理人、パン職人、何でも屋の仲間3人とカフェがスタートした。

店名は住民や震災でばらばらになった人はもちろん、全国からも沢山の人が蛤浜に集い笑顔が生まれるようにと「cafeはまぐり堂」と名付けた。

2013年3月11日 cafeはまぐり堂オープン

カフェの内観

登美さんから教えていただいた愛農かまどをDIYで


筆者プロフィール

亀山 貴一

かめやま・たかかず

石巻市蛤浜で生まれ育ち、宮城県水産高校の教師となる。震災によって2世帯5人まで減少した蛤浜を再生するため、2012年3月に蛤浜再生プロジェクトを立ち上げる。2013年3月に退職し、cafeはまぐり堂をオープンする。2014年4月に一般社団法人はまのねを立ち上げ、蛤浜の魅力や課題を活かした事業づくりに取り組んでいる。

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