自分の好きなものを選べる幸せ
別居してすごく幸せなことは、大吉さんを全く意識せずに、遠慮なく自分の好きなものを選べること。ただ私と彼の趣味は、根本的に似ているんですよ。かつて、それぞれが出張に出かけて、何の相談もしていなかったのに、たまたま買ってきた浴衣が、全く同じブランドのメンズとレディースだったこともありますから。
阿部家に来られるお客様からは「夫と趣味が違って残念」というお話をよく聞きますが、その問題は全然ありません。「いいわね」と言ったら、わりと「いいね」という感じです。
それでも、いっしょに暮らしている頃は、器ひとつ買うにしても、「大吉さんはどう思うだろうか」と、どこかで意識をしていました。
そう、私は結婚してから、ずっと彼の存在をすごく意識していたんです。
もともと彼の生き方や価値観に興味があって、この人の人生についていきたいなという気持ちが強かった。だから彼がどういう反応をするか、何を物差しにして判断するか、そういったことを常に気にしていました。
昔、お世話になった恩師が、私たち夫婦それぞれに、金の硬貨をプレゼントしてくださいました。
私の硬貨には清少納言、大吉さんの硬貨には空海の顔が刻まれています。そして彼の硬貨が入っている箱の表には「空海のごとく道を求める君へ」と書いてある。確かに彼は若いときから、何となくそういう雰囲気を感じさせる人ではありました。
「登美、それでいいのか」
私が物事を判断するときには、そんなふうに大吉さんから必ずチェックが入ります。仕事で言われるのは、すごく重いことですから、私も素直に受け取って見直すこともあります。
そもそも彼は仕事で、お金のことをまず考えない。だからこそ、純粋なよい判断ができるのですが、やはり現実を考えると、判断が鈍ることがあるんです。
たとえば現場で仕事しているとき、上代価格はいくらだから、これぐらいの生地でおさえないといけないとか、いろいろなハードルがあるわけです。一生懸命やっているけれど、それをのぞきに来て「登美、それでいいのか」って。魚を釣るときには、釣り針を思い切り遠くまで飛ばせと。その針を引いて引いて、半分まで引いてもまだ距離がある。そこまで遠くに投げないといいものはできない。すぐに引けるものはそこまでのものしかできない、つまんないぞ、ってよく言われました。
それを聞いて、私も理想のものをつくるときには、よほど遠くに針を飛ばすぐらいの気持ちでやらないとダメだなと思っていました。
そんなふうに彼が何かを判断するときの無欲さや崇高さ、そういうところにはちょっとかなわないところがあります。でも、それがたまに会いに行く人ならいいけれど、日常をともにしていると疲れることもありますよね。
しかも日常は、そこまで崇高な精神で暮らしているわけではないから、ちょっと気の抜けた愛嬌のあることとか、そんな楽しみがあってもいいと思うんです。
だから「それでいいのか」と上からものを言われると、ちょっと悔しい(笑)。今は、そういったことからも解放されて、コーヒーカップひとつ、間仕切りに使う布ひとつ、すべて自分の好きに選べる。私にとって、これほどの喜びはありません。