僕の町内にある江文(えぶみ)神社には、京都大原八ヶ町の産土神が祀られている。
毎年5月4日は例大祭である江文祭(大原祭)が行われ、御輿三基が大原を巡行して村人たちが賑わう。
大原に引っ越してきた22年前、僕は江文祭りを見に行った。祭りの様子から伝統文化を大切に継承していることが感じられ、翌年から僕も祭りに参加したいと思った。
ところが、祭りに参加して御輿を担げるのは、昔から大原で暮らす家の長男に限ると聞いた。僕のような新参者は、気安く入ることができない習わしのようなものがあるのだろうか。
まずは江文神社境内に御輿を並べて神事が行われる
僕の町内にある江文(えぶみ)神社には、京都大原八ヶ町の産土神が祀られている。
毎年5月4日は例大祭である江文祭(大原祭)が行われ、御輿三基が大原を巡行して村人たちが賑わう。
大原に引っ越してきた22年前、僕は江文祭りを見に行った。祭りの様子から伝統文化を大切に継承していることが感じられ、翌年から僕も祭りに参加したいと思った。
ところが、祭りに参加して御輿を担げるのは、昔から大原で暮らす家の長男に限ると聞いた。僕のような新参者は、気安く入ることができない習わしのようなものがあるのだろうか。
江文神社の石段を下り、御輿は約3km離れた御旅所へ出発
それがどうしたことか、2〜3年ほど前から江文祭が近づくと「御輿を担がないか?」と声をかけられるようになった。
大原の若者たちは大学や就職などでこの町から出て行き、そのため御輿の若い担ぎ手たちが足りなくなっているらしい。これまでずっと続けてきたやり方では回らなくなったのだ。
今は希望すれば誰でも御輿を担げるようになった。
また、祭りの運営を取り仕切る人は、それなりの時間とエネルギーを準備に注いでいる。そちらも人手が足りないので、毎年交代で祭りの当番を回していくことが町内会で決まった。
今年はその当番が回ってきたので、僕は22年ぶりに江文祭へ足を運ぶことになった。
小中学生の大原女(おはらめ)と巫女。大原女とはその昔、頭に薪を載せて京の都へ売りに行った大原の女性のこと
江文神社は江文山(現在は金毘羅山と一般に呼ばれる)の麓にある。
岩場が多い江文山には、大昔から磐座信仰があった。山頂にある岩には火壺、風壺、雨壺という石の蓋がある石壷があり、火と風と水の神様が祀られていたそうだ。
ロッククライミングが好きな僕は、40年ほど前からこの山へ何度も通っている。この山にある様々な岩場を登り続けたが、もしかしたら神様の岩にも触れていたかもしれない。
平安時代後期にそれら火と風と雨の三神を山麓に遷座したのが、江文神社の始まりと言われている。昔は神仏習合の宮寺であったはずだ。
中世になると毘沙門堂江文寺となって栄えた時期もあるが、織田信長の比叡山焼き討ちなどの影響で退転したと言われている。
大原は比叡山のすぐ北西麓にあり、天台宗の寺院が多い。比叡山の影響が強かったのだろう。
御旅所で踊りを舞う巫女さん。京阪では巫女さんをイチコ、大原ではイチカカと呼ぶそうだ
現在の江文神社には、穀物の神である倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を主祭神に、風の神である組長津彦神(しなつひこのかみ)、火の神である軻遇突智神(かぐつちのかみ)が祀られている。
江文祭は、それらの神々の神霊が御輿三基に鎮まり、御旅所である花尻の森まで往復するという流れである。
祭り運営の当番である僕は、御輿に使う道具や担ぎ手、それと彼らの飲み物などを車で運ぶのが仕事であった。
それを済ませたら御輿を担ぐようにも誘われたが、祭りの流れを写真に記録したかったので自主的に撮影係として参加させてもらった。
どうぞ、江文祭の写真を見てください。
御旅所の花尻の森で太鼓まわりが行われる。神事では御神体に息がかからないように榊(さかき)の葉を口にくわえるという
筆者 梶山正プロフィール
かじやま・ただし
1959年生まれ。京都大原在住の写真家、フォトライター。妻はイギリス出身のハーブ研究家、ベニシア・スタンリー・スミス。主に山岳や自然に関する記事を雑誌や書籍に発表している。著書に「ポケット図鑑日本アルプスの高山植物(家の光協会)」山と高原地図「京都北山」など。山岳雑誌「岳人」に好評連載中。
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