静岡県浜松市の「辻村さん」は、辻村兄の啓介さん、そして弟の昌示さんの2人の兄弟が活躍する、藍染と織りの工場さんです。
けれど、辻村兄弟の1つ前の代、つまり辻村さんの父が当主を務めていた時代は、じつは辻村さんの専門分野は藍染と織りではありませんでした。
静岡県浜松市の「辻村さん」は、辻村兄の啓介さん、そして弟の昌示さんの2人の兄弟が活躍する、藍染と織りの工場さんです。
けれど、辻村兄弟の1つ前の代、つまり辻村さんの父が当主を務めていた時代は、じつは辻村さんの専門分野は藍染と織りではありませんでした。
当時は、真っ白い柔道着用の生地づくりをメインで手がけていました。けれど、藍染を専門に仕事をしていた辻村さんの叔父が倒れ、事業をたたまなければならないという事態に陥ったとき、辻村さんの祖母が「それはもったいない」と悲しみました。
辻村さんたちは、その一言をきっかけに、藍染と織りを同じ工場内で手がけることをことを検討し始めたのです。
100年以上前の建物を修復しながら、使い続けている辻村さんの工場の様子
ただ、その時に1つだけ懸念事項がありました。それは、真っ白な柔道着用の生地と、藍で染めた生地を同じ織機で織ると、どうしても白色に藍色が移ってしまうという問題です。
辻村さんは悩んだ末、まず第一に、叔父が守ってきた伝統の藍染を守ることを決めました。その代わり、柔道着の生産を諦め、藍で染めた剣道着用の生地を手がける方向に変えたのです。
そして、ちょうどその頃、東京で服飾・繊維を学び、工場を継ぐために浜松に戻ってきたのが兄の啓介さん。
20歳で当主となり、父を継いで織りをメインに仕事を始めました。そして「今後も藍染を続けていくのならば、同じような生地を織っていても仕方がない。辻村だからこそ生み出せる、多種多様で個性的な新しい生地づくりに力を入れたい」と考えるように。
「藍染専門の工場は日本全国にまだたくさんある。生き残っていくためには、研究を続けねば」と考えたそう
そして兄の啓介さんが浜松に戻ってきてから11年後。6歳年の離れた弟・昌示さんが家業を継ぐために同じく浜松に戻ってきます。
弟の昌示さん
きっかけは、啓介さんが「そろそろ戻ってくる気はないか?」と声をかけたこと。
当時、昌示さんは啓介さんの薦めで進学した服飾の専門学校を卒業し、繊維関係の会社に勤めていました。けれど、幼い頃から兄と同じく「いつか地元に戻って家業を継ごう」という気持ちを強く持っていたそう。
そのため、帰郷と家業のサポートを二つ返事で快諾。そして1993年から、兄弟での藍染・織りの仕事が浜松の地で始まったというわけです。
第3回目は、辻村さんの最大の特徴である藍染と織りについて、より詳しくお話します。
伊佐 知美
1986年、新潟県出身。「登美」ブランドで起用されている「マンガン絣」の産地・見附市が実家。これからの暮らしを考えるウェブメディア『灯台もと暮らし』編集長・フォトグラファーとして、日本全国、世界中を旅しながら取材・執筆活動をしている。著書に『移住女子』(新潮社)。
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