若狭と京都を結ぶ「鯖街道」
僕が暮らす大原は鯖街道沿線の町のひとつである。
近年、若狭と京都を結ぶ道は鯖街道と呼ばれるようになった。国道沿いに名物の鯖寿司の店が多いので、その名が付いたのだろうか?
行政や観光などに関わる人々が、村おこしの願いを込めて、その名を広めたのだろうとも想像される。
古くより朝鮮半島から日本に伝わった大陸文化、また海産物や他の地域から船で運ばれた食材などは、まず玄関口である若狭湾に面した小浜に上陸した後、奈良や京都の都へ運ばれた。
十八里あると言われる小浜と京都の間には、標高600〜800mの丹波高地の山々が林立する。それら文化や食材は人や馬に担がれて、山々を越えて伝えられた。
小浜を中心とした若狭湾の町と京都を南北に繋ぐ主な街道は7本ある。つまり、鯖街道はひとつではなく7本あるということになる。
東から西に向かって順番に、敦賀街道、鞍馬街道、雲ヶ畑街道、小浜街道、高浜街道、舞鶴街道。
それらを総称して若狭街道と言い(「北山の峠」金久昌業著・ナカニシヤ出版より。街道名は統一されていない。「北山の峠」に従った)、1500年の歴史があるそうだ。
7本の若狭街道を横に繋ぐ枝道や、近くの山村を横に結ぶ道もたくさん丹波高地の山中を走っている。その中には現在舗装された車道もあるが、歩かなければ通れない昔のままの山道も多い。
鯖を担ぎ鯖街道を歩く
数年前、友人と鯖街道を歩き通そうと挑戦したことがある。
まずは早朝に小浜の魚屋で鯖を買い、その場で腹を抜いて塩をふり、リュックに詰めて歩き始めた。
鯖街道では鯖だけが運ばれたわけではないが、確かに鯖の数は多かったようだ。若狭から運ばれた鯖が、京の都へ着く頃には丁度いい塩加減になるそうだ。
僕たちもそれに習い、1日で歩き切った後に鯖寿司を作って食べるつもりだった。京都では祭りなどハレの日に必ず食べるごちそうなのだ。
奈良東大寺二月堂の「お水取り」で汲み上げられる香水は、小浜の神宮寺で「お水送り」されて、10日かけて地中を渡ったものである。
はるか昔からの若狭と奈良の繋がりを想った。
やがて根来坂の山道を越えて、朽木小入谷に下る。次に標高900m近い経ヶ岳の山越えをしたが、久多の山村に下ったところで日暮れとなってしまった。
さらに7時間ほど歩けば大原へ辿り着けるだろう…。ところが、「うまい鯖寿司をごちそうする」と車を持つ友人に電話して、迎えに来てもらった。
「昔の人ってムチャクチャ健脚やったんやなあ」と山歩き敗退の言い訳をしながらも、翌朝、初挑戦で作った鯖寿司は最高の味だった。
象が鯖を担いで大原を歩いたかもしれない
敦賀街道が通る古い山村の大原。もしかしたら、大昔、ここで象が歩いたことがあるかもしれない。
「何を寝ぼけたことを言うのですか?」と思われることだろう。
室町時代初期、日本で初めて象が京の都へ献上された。ほんとうの話である。象は大陸から小浜に船で運ばれて来た。
若狭街道の中で、当時最も歩きやすかったのが敦賀街道だと思われる。だから大原を象が歩いたかもしれないと想像するのだ。
象は力持ちなので、一度にたくさん鯖を背負えたはずだ。とはいえ、象が日本の十八里の山道を歩くことを気の毒に思い、別ルートを考えたかもしれない。
小浜から熊川宿を経て、琵琶湖の今津より船に乗せるのだ。そして大津から陸路を歩いて山科を経て御所へ。
でも、象が乗れるような船が当時、琵琶湖にあっただろうか?
そんなことを考えているとじつに楽しい。
筆者 梶山正プロフィール
かじやま・ただし
1959年生まれ。京都大原在住の写真家、フォトライター。妻はイギリス出身のハーブ研究家、ベニシア・スタンリー・スミス。主に山岳や自然に関する記事を雑誌や書籍に発表している。著書に「ポケット図鑑日本アルプスの高山植物(家の光協会)」山と高原地図「京都北山」など。山岳雑誌「岳人」に好評連載中。