梶山正「京都大原で暮らす」|第一話 ようやく見つけた終の棲家

僕が暮らす京都大原は、京都盆地北東の縁から高野川沿いに7キロほど登った標高200mの小さな盆地だ。

ここは三千院や寂光院など天台宗のお寺が多い観光地でもある。人口約2千人の多くがお年寄りで、僕のようなヨソからの移住者はほとんどいない。

大原に暮らす人々は、自分たちを誇り高き京都人と思っている。ここでは3世代暮らしても、まだヨソ者扱いされるとか。「どうしたら大原人と認められるのですか?」と聞いたところ「先祖が平安時代から住んでいたら…」と真顔で応えられた。

京都盆地から北北東にある、京都北山に囲まれた大原盆地

僕は一応日本のパスポートを持っているが、タイに行くと屋台で中華鍋を振る兄ちゃんに間違えられる。

アラスカのエスキモーからはメキシコ人と言われた。モスクワ飛行場のイミグレーションでは、「ジャパン!」と言っているのにほとんど無視されて「アーユーフロム・カンボジア?」と聞かれた。

もしも、僕の友人が「ジャパン!」と横から叫んでいなければ、僕だけカンボジア行きの飛行機に乗せられていたかもしれない。

1996年の正月。この頃は家が見つからず、落ち着かない心持ちでいた。ユリカモメが飛ぶ鴨川の岸辺で

英国人の妻ベニシアと息子の悠仁と僕は、1996年6月から大原で暮らすようになった。

当初、僕たちは京都市内の借家を捜していたが、なかなか気に入った物件が見つからなかった。

英国人の住まいに対する執念はすごいものがある。どうせ借家なんだから妥協すればいいと僕は思うのに、ベニシアは気に入らないと決して首を縦に振らなかった。

そこで不動産屋は手を替え、僕たちが気に入るような大原の家を見せた上で「あれは売り家なので、最初は貸してもいいけど、数年以内に絶対買うという契約をしてください!」と言った。不動産屋が仕組んだ作戦に、僕たちはまんまとハマってしまった。

ようやく見つけた我が家。田んぼと山の木々の緑に囲まれている

この家を見たベニシアは「私はこの家で死ぬ」と感じた。そして、僕もこの家を通して新たな世界が開けそうな予感がした。

わりと大きな家で存在感をすごく感じたし、また自然に囲まれた大原の環境が気に入ったのだ。

予想外の展開のあと、それなりに苦労してようやく家を手に入れることができた。家賃が高かったので、思い切って買うことにしたのだ。

そのため僕は借金のプレッシャーでひどい肩こりになったが、不思議なことに大原へ住み始めるといつの間にか治ってしまった。

土間には大きなおくどさんがあった。その上を這う太く力強い梁を見て、僕はこの家で新しく何かができると感じた

家の売り主からは「隣近所の人に聞かれたら、借りて住んでいる」と言うよう指示された。

始めのうちはそれに従っていたけれど、家に駐車場がなかったので、3ヶ月後には、すぐ隣に住む土建屋の親方に工事を依頼した。

土地の一角を削って駐車場を作る指示を親方にすると「家主に相談して、ちゃんと了承を得ないと工事はできない」と。

「そんなもんは、いいのです!」と僕が応えると、「ああ、そういうことやったんか…」と親方はようやく理解した顔になった。

こうして僕たち家族3人は、大原でずっと暮らしていく住人として、正式に近所の人に迎え入れられたのである。

僕とベニシアの子は悠仁だけだが、ベニシアは全部で4人の母親でもある。97年の冬に悠仁以外の3人が留学先から戻り、久しぶりに全員が揃った





筆者 梶山正プロフィール

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かじやま・ただし

1959年生まれ。京都大原在住の写真家、フォトライター。妻はイギリス出身のハーブ研究家、ベニシア・スタンリー・スミス。主に山岳や自然に関する記事を雑誌や書籍に発表している。著書に「ポケット図鑑日本アルプスの高山植物(家の光協会)」山と高原地図「京都北山」など。山岳雑誌「岳人」に好評連載中。

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