第四話<完結>|吉田正純×松場登美 対談|三浦編集長【『雑貨展』号外】

21_21 DESIGN SIGHTでの展示『雑貨展』への登美さんの参加を記念して、広報誌「三浦編集長」の号外を作りました。

誌面にはすべて収録できなかった、展示什器を作った大森在住の彫刻家・吉田正純さんと登美さんによる対談全文掲載最終話です!


正純 今回資料を一杯もらって一通り目を通したけど、やっぱり吉田の世界では全くないよね。

なんというか、もらった資料の世界観っていうのはやっぱりあの会場の中だけの、机上の理論ですよ。ああ、こういうノリなんだろうなって他の出展者とか見ながら想像するんだけど。

個人的な共通点を感じるようなものはまずない。登美さんから直接聞いた話であの場所にいくつか置いてあった物を見て、そこから判断するしかないでしょ。

私はそういう世界で暮らしているわけじゃないから、全然コラボにも何もなってないんですよ(笑)

吉田正純プロフィール
吉田正純(よしだ・しょうじゅん)
1954年 島根県飯石郡に生まれる
1983年 東京芸術大学大学院美術研究科修了
日本美術家連盟会員
二紀会会員
曹洞宗龍雲山万善寺住職
石見銀山工房むうあ
島根県現代彫刻振興委員会員
1993年より大森町在住

松場登美(まつば・とみ)
1949年 三重県に生まれる
1981年 夫のふるさと大森町に帰郷
1989年 雑貨ブランド「ブラハウス」を立ち上げ、
1998年 株式会社石見銀山生活文化研究所を設立、
「群言堂」を立ち上げ、商品の企画・製造販売を手がける。
2008年 築220年の武家屋敷を再生した宿「他郷阿部家」を始める
株式会社石見銀山生活文化研究所 代表取締役所長
株式会社他郷阿部家 代表取締役

登美 でもある意味で私も全然違う世界ですよね。

だから最初に悩んだって言ったように、私が本当に出られるところなんだろうかってよっぽど思ったけど、ある種、これはすごい挑戦というか、なんか殴り込みみたいなものだよね。

だから面白いと思うんですよ。そこそこのものを出してただぼそぼそやっているだけでは出す意味がないけど、おそらくこれは何かしらの反響を生むんじゃないかという確信はある。そうでなければやらないね。



正純 それは登美さんの感覚だと思う。

俺は登美さんの話しか聴いてないし、こんな感じという端々でただイメージしているだけで。

登美さんにも言ってるんだけど、俺は一年365日のうち300日考えてるんですよ。

それで残りの65日の中で材料を頼んでいろいろ調整して制作が10日ぐらい、というノリで乗り切ってるから、今回なんかは結構速い方ですよ(笑)



登美 正ちゃんが仕事速いのは私知ってるから(笑)。できたとは思えない速さですよ。天から何か降りてくるんじゃないかしら(笑)

でも300日考えている蓄積があるから、手から自ずと出てくるものがあるんだろうね。



正純 考えること自体が大事なわけじゃないけどね。

何を考えてるかというと、例えばデザイン上鉄板にたくさんの穴を空けたらかっこいいな、空けたいなと思うんだけど、でもそれだけの穴を正確に空けるのはめんどくさいなとも思う。

だからどれだけ数を少なくしてギリギリのところで機能させられるかなっていうことを考えるわけ。これが徹底的に考えるってこと。



登美 正ちゃんがしょっちゅう口にしてた「手数が多い仕事はダメだ」っていう言葉が耳にこびりついてて、今うちのデザイナーにも言うんだよね。

手数をかければいいものができると思っちゃうんだけどそうじゃないんだよね。

阿部家中の間にある吉田正純作の鉄のテーブル

正純 時間があればいくらでも正確に数ある穴も空けられるわけよ。仕事をする時間があれば。

でもそれが大切なわけじゃなくて、最終のシンプルな、必要最小限のノリが気持ちとしては重要なわけでしょ。そこまでギューッと締め上げた感覚みたいなものがとっても大事なんですよ。

単純っていうのはすごく重たい言葉だよね。二者択一の単純もあるけども、百の中から一つ選ぶ単純もあるでしょ。それも単純なんだよ。

いざという時は、これは長か半だなってピシッと決めなきゃいけないノリもあるけど、それがすべてではない。

じっくり考えて百分の一をちゃんと目指していくという方向性だってある。

百分の一って究極のシンプルだと思うけど、その捨て去る九十九をどれだけ決めていくかっていうところにはものすごい大きな葛藤があるわけですよ。

だから捨てた九十九を残った一つに、その重たさの中に用意しようとすると、滅多なことでは捨てきれないし、残す方も責任をもって残し切れないというところがあるよ。



登美 ただね、一般的な商品として店で売るものっていうのはやたら無駄なことをやったものの方が売れたりするわけよ。世の中にあるものはそういうのが多いでしょ。

こんなに余計なもの入ってない方がいいのになんでと思ってもあるよね。そこが難しいところなのよ。



正純 それがね、落としどころですよ。俺もよくやる。

例えば、これはヒットしてるかどうかは別だけど、阿部家のあの鉄のテーブルにはカタツムリがあるっていうのはそこらへんなんだよ。

ない方がいいとかない方がシンプルに見えるとか十分考えられるんだけど、そこにこれはヤモリかな、カタツムリかな、ってふと考えた時に「今回はカタツムリにしよう」と思って、せっせせっせと、あのテーブルを作るのと同じくらい時間をかけてカタツムリを作ったわけですよ(笑)。

そこにすごい個人的なこだわりがあったりするわけ。

群言堂本店2階ギャラリースペースでの展示

登美 全然話のレベルが違うけどさ、私毎月ポストカード作ってるでしょ?

会社に行ったら出荷の島田さんが2、3個小さな雪だるまを作って投げてあって、もう転がって壊れてたんだけど、あ、これだと思って雪だるまを作って鄙舎の縁側に並べて写真に撮ったのね。

それで最初は何かつけようかなって、毛糸の在庫がいっぱいあったからくるくる巻いてやろうかと思ったけど、いや、いらないと思って結局白い雪だけで作ったんですよ。

それで私は満足したんだけど、本店に行ったら南天で目がつけてあったりいろんなことがしてあって、なんでかなって(笑)。私は唯一毛糸の一本つけるかどうかで迷って結局つけなかったのに・・・。



料理だってそうですよ。やたら飾りを乗せたりとか細工をしたりとか、あれがちょっと違うなと良く思うんだよね。

だから阿部家の中は雑然と見えているにしても、ほんのもの一個であっても「10cm場所が違う」とか「これはここじゃない」って直したりとかしょっちゅうやってるんだよ。

自分の感覚を常に張り巡らせてる。そんなに研ぎ澄まされたような空間を作りたくはないから雑然とあるんだけど、ものすごい微妙なところをいつも考えてる。

本店の庭なんかのことも、草をとりすぎてもいけないし草がはびこってもいけないし、この草は抜くけどこの草は残すっていうことのイメージまで自分の中にはあるんだよね。

だから完璧にきれいに美しく掃除が行き届いていればお客様が気持ちいいかというとそうでもないんだよね。意外とそういうところって緊張感があったり居づらかったりするんだよ。

だから適度に汚れがあったりとか適度な乱れ感もあるんだけれども、かといって行き過ぎて乱れていてもダメというバランスを保つには自分の中の感覚だけなんだよね。



ある時ウメモドキの枝を生けてたんだけど、それの枯れたのを阿部家の明ちゃんがゴミ箱に捨ててたのよ。

だからそれを拾ってきて、枯れた葉っぱを全部とって赤い実だけにして生けたのね。

そうしたら明ちゃんがそれを見て大粒の涙をぼろぼろ流して「どんなに登美さんに厳しいこと言われてもついていきます」って言ったのよ(笑)。

だから、基本的には見て美しいかどうかっていうのも大事だけれど、そのものに愛情を注げるかどうかっていうことなのよ。

私はいつも花でも、命をもらって生けてるわけだから、もし枯れていても一輪でも蕾がついていればそこを切ってそこだけでまた生けるし、必ず最後まで使い切るんだよね。

さっき言った感性でも、例えば南天を生ける時に葉っぱを添えて生けたらどう見ても「南天」なんだけど、私にとっては葉っぱは邪魔なんだよね。赤い実だけだったら「赤い実」なんだよね。それがすごく大事。

服でもなんでもデザインする時はそういう感覚はあるよね。

阿部家玄関にはいつも季節の野の植物が生けられている。これはヨウシュヤマゴボウ

正純 うちの92歳の婆さんは大正から昭和の人だからものすごくものを大切にするんだけど、そういう気持ちはとても大事だけれど、そこに美的な感覚があるかどうかっていうところに大きな違いがある。

大切にすればいいというものでもないんだよね。一回何かの機能がなくなって、その機能としては使い物にならなかったものを別のものに使いましょうっていう、その感覚は美的な感覚とは違うんだよね。

ものを大切にしているところは一緒なんだけど、そこに大きな美意識の違いがあるよね。だからこれは親子でも譲れないの。

でも、92歳まで生き抜いている婆さんを大切にしようと思ったら、美的な自分の感覚の不具合をちょっと抑えるわけ。

そこにお互いのやりくり、落としどころがある。無理な領域のグレーゾーンをどれだけ持っているかが自分の感覚の価値だと思うね。



だから勉強して知識として学んでいくということはシンプルにダイレクトに答えが用意されていることを吸収するわけだからそれは大切なんですよ。

でもそれがすべてなわけではなくて、答えというのは山のようにあるわけだから、その山のようにある答えの中のどれをチョイスするかによってその人の価値観が全部違ってくるわけ。

山のようにある答えの質量を自分がどれだけ持っているかということが大切なわけ。

それは学問とかそういうものでは学びきれない世界だよね。だから場数でこなすとか度胸でこなすとかいろいろあるけど。

田んぼでの展示設置中の一コマ

正純 展覧会に出さないで作家と言っている人だって五万といますよ。自分の個展はするけど○○展には出さないっていう。

これは俺は食わず嫌いだと思う。ピーマン嫌いだから食いませんっていう人と一緒。

でもピーマンだって料理の仕方によっては食えるピーマンと食えないピーマンがあるかもしれないじゃん。

だから場数なのよ。このピーマンもあればあのピーマンもあるという。そういうのをどれだけこなしているかっていう。

俺なんかはかなり狭い人間だからなかなか言えないんだけど、類友でまとまるっていうのが一番気楽で気持ちいいんだけど、それだけのもんだよね。

全く自分とは接点がないだろうなっていう世界でも、自分がそこにいることによってちょっとした閃きみたいなものが出てくる可能性もあるし。

トップダウンじゃいけなくて、まずは自分のベースをきちんと持ってて、それに対して自分はどうだっていうのを常に意識しておかないとすべてトップダウンになっちゃうじゃん。



登美 会社であきれるのは、私がスタッフに「例えばこうすれば?」って言ったことをそのままやっちゃうとき。

これはすごく多いのね。なんで自分で考えようとしないのかと。でも、それもやっぱり経験だよね。失敗も山ほどしないと。

思えば、失敗してもワクワクすることしかしてこなかった気がする。「まあこんなもんでいいか」っていうことは私は絶対しない。

これはちょっと行き過ぎてて売れないだろうなと思って売ったら案の定売れないみたいなものもあるけど、それは一つの挑戦だからさ。

今回の展示もそんな挑戦の一つだから、どんなことになるか楽しみにしています。今日はありがとうございました。



正純 ありがとうございました。


<おわり>



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書き手:広報課 三浦

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