【第一話】始まりとご縁/書籍『ぐんげんどう』が出来るまで|三浦編集長【号外】

(この取材は書籍完成直前の2015年4月22日に行いました)

林:先日、「ぐんげんどう」の印刷立会いで、富山に行ってきました。



菅:えっ、富山まで行ってきたんですか!?



林:はい。群言堂の松場忠さんと藤井保さんとで富山に三泊しました。



菅:それはお疲れ様でした。どうでしたか?



林:写真の色などをじっくり確認することができました。

今回の印刷は山田写真製版所さんにお願いしたのですが、プリンティングディレクターの熊倉桂三さんにご尽力頂き、藤井さんの写真の微妙なトーンを丁寧に出して頂きました。

藤井さんも「こんなにスムーズに進んだ印刷立会いは初めて」とおっしゃっていて、良かった~とホッとしているところです。

忠さん(群言堂広報課長)は石見銀山から富山まで8時間くらいかけていらしたようで、藤井さんに「北前船を出して来た方が早かったんじゃないか?」って言われていました(笑)。

印刷立ち合い(手前から熊倉さん、藤井さん、林さん)

菅:あとは本の仕上がりを待つばかりですね。ここまで来るのにとても時間がかかりましたよね。そもそもいつから始まったんでしたっけ?



林:撮影自体は2012年からですね。藤井さんは、この写真が最終的にどんな形のものになるのかを解らないまま、撮り始められたようです。



菅:わからないのに撮影ってすごいですよね(笑)。その頃から林さんも関わられていたんですか?



林:それが、まだその時は佐藤にもお話すら来ていなかったのです。最初は、藤井さんと当時のアシスタントの及川さんとで撮影を始められていました。

藤井さんと大吉さん・登美さんとの会話の中で、「誰かデザイナーに入ってもらおう」という話になり、その後不思議なご縁もあって、佐藤にお話を頂くことになりました。

不思議なご縁とは、当時群言堂でウェブやグラフィックのデザインをされていた小林孝寿さんが、かつて佐藤卓デザイン事務所でアルバイトをしていたことや、登美さんが2008年に北海道・滝川市で行われた「太郎吉蔵デザイン会議」で佐藤とお会いされていたことなどです。

藤井さんも過去に『SKELETON』という写真集やBang and Olufsenの大きなポスターを佐藤と作られていました。

そうしたことから自然と「じゃあ佐藤さんに相談してみましょうか」となったそうです。

後でわかったことですが、群言堂と縁の深い大森在住の彫刻家・吉田正純さんという方が、実は佐藤と大学の同期だったりもされて。色んなご縁が、佐藤を石見銀山に引き寄せたような気がします。

まずは藤井さんから佐藤にお声がけをいただき、佐藤が石見銀山にお伺いすることになりました。

その頃は私もまだ何も知らず、佐藤のスケジュールに「石見銀山・群言堂訪問」とだけ書いてあるのを見て「これはどこだろう?」と思っていました(笑)。

佐藤が帰ってきて、共用スペースに置かれていたその時の資料を見て、事務所のみんなと「これはなんだろうね…?」と話していたのです。

大森町の街並や阿部家の様子がとてもインパクトがあって。

それで私も興味を持って調べてみたら、これはとても面白そうなところだなと思いました。

まだ担当するデザイナーが決まっていなかったので「じゃあ私、やりたいです!」と立候補しました。



菅:手を挙げられたんですね。



林:そうなんです。私も地方出身なので、地域で仕事されている皆さんに興味がありました。



菅:藤井さんとはそのときが初めてだったのですか?



林:少しはあったのですが、直接じっくりご一緒させて頂いたことはなかったので、これは滅多にない貴重な機会だと思いました。



菅:佐藤事務所の仕事は立候補で決まるんですか?



林:立候補はあまりないかもしれません(笑)。ですがこの件に関しては、どうしても担当したかったので、事前にマネージャーに「私、担当したい〜!」と耳打ちしていました(笑)。



菅:いいですね、積極的に手を挙げるのは。



林:そうですね。佐藤やマネージャーに思いを伝えて担当することができて、本当に良かったです。



菅:初めて大森に行かれたのはいつですか?



林:打ち合わせで初めて行ったのが2013年の夏ごろですね。ただその時はまだ、群言堂の皆さんも何をお願いしたらいいのか、具体的なイメージがまとまっていなかったようで…(笑)。



菅:私も最初、具体的なイメージがわからなかったのですが、やっぱりそうだったのですね。



林:はい、私たちも何をするのかよくわからないけど、まずはお話をお伺いしましょう…という感じでした(笑)。



菅:だから、こんなふうに面白く広がっていったんですよね、きっと。



林:そうなんです。そこでまず石見銀山生活文化研究所と群言堂の概要、会社理念、そして社員の方々が増えてきた現在の様子などを伺いました。

その中で、大吉さん・登美さんから次の世代の皆さんにバトンを渡す作業が必要、とのお話があったのです。

そこで何を作るべきなのかが見えてきた気がしました。始めは藤井さんの写真とバトンのセットを作りませんかという話になりました。

まさに「バトン」で、その中には巻物が入っていて、そこには会社理念が記され、社員の皆さんに名前を書いて拇印を押していただくような物をイメージしていました。



菅:本当に会社のため、社員のためという感じだったんだ。



林:そうですね。まずは社員の皆さんのために。そのうちに写真と会社理念をまとめた本を世の中に出せたらいいねと話が膨らみました。

東京に戻り、早速佐藤が平凡社の下中美都さんに相談差し上げたところ「面白そうですね。ぜひ本にしましょう」とおっしゃっていただけました。

そして下中さんが「今まで登美さんの本は読んだことがあるのですが、大吉さんの文章はないですね。

群言堂の母性だけではなく、父性も見てみたいですね」と、とても良いヒントを下さったのです。

みんな、なるほど!確かに!と意気投合しました。

そこで写真集と大吉さん語り下ろしの読み物本の二冊組になることが決まり、編集は自分たちですることになりました。



菅:その時から私も加わらせてもらったんです。



林:はい、実際のキックオフはその打ち合わせですね。平凡社さんは今まで弊社もいろんな本でご一緒させて頂いています。

とてもユニークな本を沢山出版されているので、群言堂さんにはぴったりなんじゃないか、と、佐藤が話していました。



菅:その打ち合わせからもずいぶん時間がかかりましたね。



林:そうですね。「父性」という話から始まりましたが、想像以上の紆余曲折がありましたね(笑)。



菅:最初は打ち合わせをもとに、父性についてまとめようとしたんですよ。一応大吉さんと私とで構成案を考えました。

「みまもる」というテーマにしよう。年代ごとに話をしていこう。たとえば20代の大吉さんのことを聞きながら、今の20代の人たちに伝えたいことを語ってもらおうと思ったんです。

でも話を伺っているうちに、シンプルに大吉さんの生きてきた道のりを聞いていったほうがいいと思い直しました。

会社をどうやって立ち上げていったか、ご夫婦でどうやって働いてきたのか。

その全体像の中に父性がにじみ出るんじゃないか、と。

じつは文章の方もあんまりカチッと決めないで話を聞き始めたところがあるので、聞いていくうちに変化していきました。

書籍『ぐんげんどう』の写真集の松場大吉

林:今まで大吉さんは、言葉ではあまり多くを語られてこなかったように思います。ですので、今回は結構緊張されていたのでは?



菅:そうかもしれません。ただ、私は群言堂さんとのお付き合いが長いんです。

親しくさせていただいている分、「こんなこと話すつもりなかったのに」ということまで、大吉さんに聞きだしてしまったかもしれません。

初めてお会いしたのは2001年の暮れ、雑誌の取材で登美さんの暮らしを見せてもらいました。

阿部家がまだボロボロの状態で、これからここを自分たちで作っていくんだっていう話を聞いたんですよ。

12月の取材だったんですけど、なぜだかまたすごく行きたくなって、実家が香川県なので、お正月に実家に帰ったついでに一人で電車を乗り継いで大森に行って、ご自宅に泊まらせてもらったんです。



林:その時のご自宅は、どの場所でしたか?



菅:今大吉さんが住んでいる松場家のご実家ですね。



林:私たちも冬の撮影の時に2度ほどご実家にご招待頂きました。1度目は大吉さんがご自分で料理された中華料理を振る舞ってくださいました。とても美味しかったです。

2度目は餃子パーティで、みんなで餃子をつくって頂きました。

今では少し反省しているのですが、その時の私がとても態度が大きかったみたいで…(笑)。

美味しい餃子にしたいと思うあまりに、藤井さんにビシバシ調理のお願いをしてしまっていたようです。

「藤井さん、餃子を作る前にちゃんと手を洗ってくださいね」とか「具が多すぎます」などなど…。

藤井さんには「撮影が終わったら人が変わったよね…」と、今でもチクチク言われます(笑)。



菅:その餃子パーティ、参加したかったなあ(笑)



林:登美さんも、もともとはこの家にずっと住んでいらっしゃったのですね。



菅:そうなんですよ。それ以来もう10年以上のお付き合いです。

私にとっては心が整う場所というか、いつも大事なことを確認させてもらえる場所。

また石見銀山に行きたいな、お二人に会いたいなって思うたびに雑誌や単行本の企画をつくって出かけました。



林:すごい!自主的な広報担当ですよね。



菅:職権乱用?(笑)でも、ただそこに行きたいという思いでした。

行って話を聞く度にすごいエネルギーをいただけたからだと思います。それに、こういう場所があることを多くの人に知ってほしかった。

最初の取材記事につけたタイトルは「石見銀山という理想郷」でした。それ以降もずっと自分の中でそういう風に思ってきたんですよ。

あれから何度も仕事をさせてもらっていますが、登美さん側からの話しか聞いていませんでした。

でも、たびたびうかがう大吉さんのお話がとても面白いので、いつかは聞いてみたいなっていう思いがあって、今回機会をいただいてすごく嬉しかったです。

でも実際に聞いてみたらあまりに赤裸々だから、どうしようって・・・(笑)。



林:菅さんから最初の原稿をいただいた時、佐藤と私とでとても面白く読ませて頂いたのですが、一方で、こんなに赤裸々に書いて大吉さんは大丈夫なんだろうか?と佐藤も心配していました(笑)。

でもやり取りする中で「これが大吉さんであって、群言堂なんだ」と思うようになりました。



菅:私も、聞き出すには聞き出してしまったんですけど、この話を一体どうしよう?と悩みました。

ただ、「これは書こう、これは書かない」と自分で取捨選択するのはやめようって思ったんです。

書いてはダメなことなら大吉さんが「ここは嫌」って言うだろうし。



林:削除された部分はあるんですか?



菅:少しありますね。でも本当に少しです。



林:じゃあ本当にさらけ出されたのですね。



菅:はい、本当に。ときどき涙されながら……。



林:えっ大吉さんが!?どの辺りなんだろう…。「会社、傾く」のところとかですかね?



菅:こんなこと話していいのかな……。お話は二人だけで阿部家の蔵のバーでお酒を飲みながら、三日くらいかけてじっくり聞きました。

涙されたのは最初の部分、ご両親と縁を切るっていうところですね。

「会社、傾く」のところはここまで話して大丈夫かなという感じではありましたが涙はありませんでした。

あとは登美さんに対するいろんな葛藤の部分ですね。

他郷阿部家の蔵バー

林:その部分は私もすごく意外でした。「仲良し町内別居」と笑っておっしゃっていましたけど、それがお二人にとって心地よい形なんですよね。



菅:そうだと思います。お話を伺いながら、じんときてしまうことがたくさんありました。

私は登美さん側からはずっといろんな話を伺ってきたんですけど、やっぱりご夫婦双方からの話を聞くとそこに厚みが生まれます。

聞いていてすごく面白かったので、つい前のめりになってしまいました。

だから大吉さんにしてみれば「こんなところまで話すつもりはなかったのに」っていう思いはきっとあると思うんです。

でも、林さんがおっしゃったみたいに、それがやっぱり群言堂なんだって感じました。

さっき「理想郷」と言ったんですが、実は理想郷の裏側にはお二人のたくさんの悩みや葛藤があるんですよね。

でも人間味のある部分を知ったことで、より理想郷だという思いは強くなりました。

大吉さんは今もまだ葛藤されてるかもしれませんが、そんな部分も見せられるのが群言堂であり、石見銀山生活文化研究所なんだって言えるしなやかさと力強さを感じました。

【第2話】バトン|書籍『ぐんげんどう』が出来るまで|三浦編集長【号外】

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