新たに「心の物差し」を

土蔵の中から偶然見つけたボロの風呂敷は、
穴が開いたり破れたりしたところにていねいにつぎはぎがしてあった。
何の作為もなくはぎあわされた模様の美しさに魅せられて、それを生地に表現したいと思った。

注文した先は岐阜県鳥羽市の織屋さんである。
古布の使い古したイメージを出すためにわざとゆがみやふぞろいを求めた。
複雑な模様と多色の配色に挑んだ現場は、
難しいがゆえに取り組みがいがあると、久しぶりに沸いたという。
こんな時、職人の卓越した技能と難題に挑戦しようという心意気に尊敬の念を抱かずにはいられない。

新潟県見附市にもほれ込んだ機屋さんがある。
あえて旧式の機械を使っている。
無理をしない速度で織るため糸に自然な遊びが生まれる。
それが布に空気の膨らみを与え、昔ながらの風合いとなる。

生地は正直だ。
手にした時に、どう作られたかが伝わってくる。
ていねいに、素直に作られた生地は優しい。
この機屋さんは、効率のいい高速織機が奨励された時代に
「新潟ならではの味を残したい」と古い機械を守ってきた。
そこにも共感して、毎シーズンこの生地を使わせてもらっている。

私のものづくりは、まず素材ありきで始まる。
この十数年来、素材を求めて産地に出向いてきた。
家族的な規模だが誇りをもってこだわりのものづくりをしている人たちがいた。
いいものを作るには手間ひまを惜しまない作業をしている人がいた。
産地ごとの気候風土に合った素材や、長い歴史の中で継承されてきた技に出会う度、
心が震え、ものづくりの喜びを知った。

かつて日本は世界の中でもあらゆる分野での優れたものづくりの国として、高い評価を受けてきた。
繊細な感性、豊かで変化に富んだ気候風土、勤勉な国民性によるのだろうと思う。
ところがそれを支えてきた産地は、特に繊維業界で全国的に極めて厳しい状況にあると聞く。
大量生産による安価な中国の素材におされているのが原因の一つである。

かつていい素材を作っていた産地に行ってみると、一軒の機屋さんも残っていないというケースさえあった。
伝統的な産地をここまで疲弊させる大量生産という在り方に、大きな疑問を感じる。
確かに大量に作ることによってコストは下がり安く販売できる。
しかし消費者は安いからと安易に買うようになり、簡単に使い捨てる。
それが大量のごみになった時、環境に与える負荷は計り知れないだろう。
もっと本質的には、大量生産品が消費者に真の満足を与えるのだろうか、という問題がある。

「こんなもんでいいだろうと作られたものと暮らしていると、こんなもんでいいやという暮らしになってしまう」
という文章をある本で読んだことがある。
ていねいにデザインされ作られたものには、作り手の価値観や美意識といったものが表現されている。
そこに込められた思いとかメッセージを受け止めることで、
買い手は精神的な満足感を得られるものではないだろうか。

この山深い大森の町に、わざわざ遠方から足を運んでくださるお客様がある。
「デパートで商品を見た時に、感じるものがあったんです。こういう場所で作られていたんですね。やっと分かりました」
そう言って納得される方が多い。
ものに託したメッセージが不確かではあるが、何かしら伝わっていると信じる。

私たちの作るものは大量生産品に比べると高い。
中国から流れ込んでくる安い品を見るにつけて葛藤を感じる。
しかし、せめてすぐにごみになってしまうものだけは絶対に作りたくはない。
消費者も、ものを選ぶ際に「安さ」という経済的な物差しのほかに、
もう一つ「身近に置いて心が満たされ、長く愛着を持てそうなものかどうか」
という精神的な物差しを持ってほしいと思う。

登美

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