この原稿の〆切りが近づいた今月初め訃報が届いた。
鄙屋(茅葺の家)の元持ち主だった梶谷アキヨさんが亡くなられた。
享年九十五歳の大往生だった。
すでに書きかけていた原稿をボツにして、 アキヨさんのご冥福を祈りつつ、新たに書き直すことにした。
辺鄙な田舎で仕事をしているせいか、世間知らずの無器用な会社経営にも関心を持って下さる方が増え、
そのおかげで、著名な芸術家や立派な学者さんとの出会いにも恵まれるようになった。
しかし、そういった特別の知識を積まれた方や才能に長けた方からの学びや刺激とは全く異なる
「只」という生き方のすばらしさをアキヨさんは教えて下さった。
浄土真宗には、ただナンマンダブ ナンマンダブと一心にお念仏を唱える
「妙好人」と呼ばれる人達がおられるそうだ。
愚直とも思えるその人達は、厳しい修業を積んだ高僧よりも仏様に近い所におられるとも言われている。
正にアキヨさんは妙好人を思わせるお人柄だった。
十四年前、私達は本社屋を建てるために千坪ほどの土地を手に入れた。
しかし、この大森の町に利便性効率性優先の会社然とした建物を建ててよいのだろうかと、
大吉っあんは思案していた。
二人が描いた理想の社屋へのアプローチは、畦道のむこうに小川が流れ、そこには丸太の橋がかかり、
小川のそばには小さな竹薮、竹薮のそばには茅葺の民家・・・
そうです、夢に描いた風景を実現すべく、アキヨさんとの出会いがあったのです。
そもそもの出会いは新聞記事だった。
「茅葺豪農屋敷解体、引き取り手募る」という記事をみつけて、大吉っあんと顔を見合わせた。「これだ!」
私達の行動はいつも無謀すぎる。移築するには数千万かかる・・・
そのことが全く頭にはなかった。どうやってお金の工面ができたのかは、今だに知らない。
インドの諺で名言を見つけた
The cost is long forgotten
But QUALITY is remembered forever
アキヨさんの話にもどろう。
十七歳で嫁ぎ、八人の子供を生み育てられた。田畑を守り、家を守って来られた七十八年間。
計り知れないさまざまなことがあったにちがいない。
縁側でお茶をいただきながら思い出話を坦々と語って下さったことがある。
「いろりで子供を怪我させてしもうてなあ」
「石臼で大豆を挽くと、きな粉ができるでな、それで子供達のおやつを作ったんよ」
「土間でトントン藁をたたいてなあ、むしろ編んで冬はそれを板の間に敷くんよ」
話を聞きながら、アキヨさんが暮らした年月をそのまま受け継ぎたいと思った。
只には、そのまま、あるがままという意味がある。素のままでいいんだよという
心の広さ、深さをそこに感じる言葉である。
アキヨさんが残して下さったものの大きさに改めて尊敬の念をいだかずにはいられない。
「只々」生きるということの難しさを痛感する今日このごろである。
登美