日祖という地域の素朴さこそが魅力
「HÏSOM」という宿の名前は、日祖の地名に由来している。
冒頭でお伝えしたように、「HÏSOM」は日祖地区の中の、ほとんど行き止まりの所にある。
観光地ではなく、自動販売機もコンビニもない。
けれど「だからこそ、ここで宿をやりたかった」と話すのは、オーナーの近江雅子さん。温泉津町で「HÏSOM」を含む、4棟の宿泊施設を経営している。
近江雅子さん
大田市温泉津町のとなりの江津市出身の近江さんは、住職をやっている旦那さんとともに9年前に家族で移住。「初めはお寺のことだけをやるつもりで引っ越してきた」と話す。
「育った場所が古民家だったこともあって、もともと物件を見るのは好きでした。
温泉津町に住み始めて間もないころ路地裏探検をしていたんです。温泉街から離れた道を歩いて行くと、突然神社が現れたかと思ったら、だんだん海が見えてきて。そうして偶然たどり着いた場所が、日祖でした。まるで人目を避けて、隠されているエリアのように感じたんです。
昔、海の神様がこの地に降り立って、温泉津町にある水上神社に向かって上がられたという神話も残っていて。神秘的な縁を感じました」
毎年、お正月には、その年の目標を書いているという近江さん。その中に「日祖を大人の楽園にしたい」という目標があった。それからしばらく時間が経って、たまたま出会ったのが現在の「HÏSOM」にあたる物件だったという。
「温泉津に引っ越して息子を出産したことがきっかけで、地域の将来のことを考えるようになりました。お寺の仕事をやりながら、人口が減っていく苦しさみたいなものも感じていたので、お寺のことをメインでやりながら地域のために他にできることはないかと考え始め、空き家を買い取って改修する方法にたどり着きました。2017年3月に『湯るり』というゲストハウスを開業して、『HÏSOM』は2棟目です」
ありのままの暮らしを楽しんで
日祖は、観光地ではなく、生活が息づく地域。だからこそ「HÏSOM」ができると聞いた地元の方々からの反発は、小さくはなかった。
しかし、粘り強く真摯に向き合った近江さんの姿勢に感銘を受け、今では地域の人たちも「HÏSOM」に集まる客人たちを歓迎してくれている。
「HÏSOM」から徒歩1分のところには地元の方々しか知らない海岸がある
もともと温泉津は、16世紀初頭に石見銀山が開発されて以降、銀の生産・流通の玄関口として、重要な役割を持っていた港町。そのため、よそから来た人に対して寛容な風土があるのでは、と近江さんは話す。
「大田市の隣の江津市出身のわたしが温泉津に来たときも、地元の方々は歓迎してくれました。採れたての野菜をどっさり分けてくれたり、温泉の入り方も教えてくれて、たわしでゴシゴシ背中を流してくれたり(笑)。そういうあたたかい雰囲気を、よそから来た人にも感じてもらえたらと思っています」
ときには地元の方々がお客さまに対して、海で獲れた魚をお刺身にして持ってきてくれたり、山で採れた山菜を分けてくれることもあるという。さらに天気がいい日は、日祖の洞門と呼ばれる岩山にぽっかり空いた穴を見に、クルージングに連れて行ってくれた方もいるのだとか。
自然と育まれたおもてなし精神は、お金のやり取りがないからこそ気持ちよくできる部分もある。
「ご自身も楽しみながら、やりたいからやってくださる方がいて、その距離感が日祖の良さだなと思います。滞在中は、地元の方々を見かけたら、ぜひあいさつしてみていただきたいです」
よそから来る客人へのもてなしや寛容さは、さまざまな人が出入りしてきた歴史と合わせて、近江さんご自身が地元の方々と実直にコミュニケーションを重ねてきた結果でもある。
「観光業を営む方々から、具体的なアクティビティや、お土産品を作ってほしいと言われたこともありました。でも、地元の方々の売上につながるのか、持続できるのかを考えると、目新しいものを作るより、ありのままの暮らしを体験してもらえることこそ日祖の価値だと感じます」
リビングにある薪ストーブは、あえて薪だけを用意して火入はお客さまに体験してもらうこともある
最後に、近江さんに「HÏSOM」でのおすすめの過ごし方を聞いた。
「海が近いから、海岸でぼーっとしたり、本を読んだり。庭に植えられた木には、いまちょうど夏みかんがなっているから、それを採って食べていただいても構いません。早めにチェックインして、日祖でのんびり、ゆっくり過ごすことを、おすすめします」
今は、飛行機の中でさえ、Wi-Fiが使える。どこにいても迅速に、なんでも届くし、なんでもそろう。
こうした現代の利便性から、あえて距離を取れるのが日祖の魅力であり、近江さんがもっとも惚れ込んだポイントの一つだ。
だから、日祖も「HÏSOM」も、観光客向けに無理に演出されたり、飾り立てられたりはしない。
ただ、波の音に耳を傾けたり、庭先でお茶を飲んだり。
焦らず、急がず。
「なにもしない」感覚に、どっぷり浸かれる時間こそ「HÏSOM」でしか味わえないのだから。